キー
- 友作霰
- 8月8日
- 読了時間: 2分
好きな作品の楽曲を歌って演奏するライブがあったので行ってきました。 10年以上前の作品で、念願叶って行けたライブだったので、本当に楽しい公演でした。
駅に向かう帰り道でふと、以前読んだ(というか、Audibleで聴いた)「転の声」の内容を思い出しました。
言わずと知れた尾崎世界観さんの本で、主人公は以前のように歌声が上手く出せないミュージシャン。
一節で主人公が「現代は老いを受け入れる潮流なのに、ライブなどでボーカルのキーを下げる行為が許されないのはなぜだろう」と考えるシーンがあったのです。
※少し前に読んだので細かいニュアンスは違っているかもしれませんが、だいたいこんな感じだったと思います。
読んで(聴いて)、たしかに、と思ったのを覚えています。
いち聴衆の意見ですが、今回行ったライブで演者さんがキーを下げて歌っていたら、私の受け取り方はたぶん変わっていたなと。
どうしてだろう、と考えてみて、私はこう感じているからではないかな、と思うのがまとまったのでブログに書いてみることにしました。
私は小さい頃から、現実のいろいろからの逃避として、永遠性のある物語(映像、漫画、本、歌)に逃げ込んできた人間です。
物心つく前から、物語やキャラクターは永遠に変わらず、現実の複雑さや無常さから逃れられる安全な場所だと無意識に気付いていたんだと思います。
比して現実は、変わるし(しかもどちらかというと理不尽な方向に!)、生きている者は衰えていきます。
CDなどに録音されている歌に対して、ライブが生ものであることは十分に理解しています。その中で歌手の方の歌のキーが下がることも自然なこと。私だって歳を取って、もともと低い声がもっと低くなってきています。
頭では分かっていても、逃避した場所の中で現実を意識して、永遠性がくずれてしまうように感じる。
昼が終わり、日が暮れはじめ、自室にじわじわ夜が迫ってくるあのなんともいえないさみしさ・怖さのようなものを感じます。
だから今回は、前と変わらず歌ってくれてありがとう、という気持ちでいっぱいでした。
変わることに抗っている人も、受け入れている人もすごいなぁと尊敬しています。
私は、無理なことからは逃げるに限(かぎ)ると考えています。
明日は元気に別作品の舞台に行って、それ以外の時間は文学フリマの原稿を進めたいと思います。
皆さんも無理せず楽しいお盆休みをお過ごし下さい。
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